番外編:突然やってきた現実感

モスクワーソウル行きの搭乗口に入ると、そこは別世界だった。
長らくお目に掛らなかったアジア人が多くいて、違和感を感じた。
見た目からほとんどは韓国人で、中高年層が多かった。

丸2週間もウクライナに滞在していたため、逆カルチャーショックというものを味わう。
ウクライナに来た当初は、ウクライナ人のルックスに違和感を感じていたように、アジア人のルックスに違和感を感じていた。
具体的に言うと、ウクライナに来たときは、ウクライナ人て美人だけど、アジアの子がやっぱり好みだと思っていたのが、だんだん良さが分かってきて、ウクライナの子もありかもと感じるようになると、アジアの子がすごく地味で自信なさげに見えたということである。
(注:この症状は日本に戻って目のリハビリを行うことで徐々に改善されていった。)

韓国までは8時間の長旅である。
機内が暗くなり、周りが眠っているときでも、ウクライナで起こったことが頭の中で駆け巡り、眠れなかった。
飛行機は中国上空に差し掛かり、外もすでに明るくなったころにかなり眠くなって1時間ほど眠った。

飛行機を降りると、疲労で体が重かった。
仁川空港には日本語で書かれた看板や案内板があって、日本までもうすぐだと感じた。
チェックインを済ませると、搭乗まで2時間あったが、まっすぐ搭乗口に向かい、ベンチに座ってぐったりしていた。
少し元気になったので、たまにWi-Fiを使って携帯をいじっていた。
目の前を通る人々を観察していたが、ウクライナでやっていたほど楽しくはなかった。
ウクライナに対してホームシック気味だった。

エアロフロートからアシアナに乗ると、クオリティの差を感じた。
清潔感があるのは、さすが韓国の会社だと思った。
関空まで1時間半。
8時間の長旅を耐えてきた身には余裕だった。
隣のおばちゃん2人組と仲良くなり、あっという間に時間が過ぎた。

おばちゃんたちは、韓国で歌手のライブを見に行っていたらしい。歌手の名前を覚えていないが、兵役に行くためラストライブだったらしい。
あとは本場のサムゲタンを食べたらしい。
韓国は活気があってすごかったと言っていた。
2週間の英語生活のため、無意識のうちに日本語が訛っていたようで、おばちゃんたちに韓国人だと思われていた。

番外編:キエフの空港で

ここからは、アルトゥールたちと別れてから、日本に帰ってくるまでにあった出来事を書いていく。
ウクライナでの滞在と同様、最後まで僕を楽しませてくれた。

飛行機が30分遅延しただけでなく、さらに搭乗時間も遅くにずれ込んだ。
行きのモスクワーキィーヴ間の便も遅延していたが、航空会社はいずれもロシアのエアロフロートである。

搭乗口にはすでに行列ができていた。
ただ、搭乗時間を過ぎてもゲートが開かないのである。
僕は他の人たち同様、チケットを手に持ち、意味も分からず立ち尽くしていた。
僕から2,3人前のところに、鼻が高く、彫りの深い初老のおじさんがいた。
彼は自分前後を行ったり来たりして、他の人の持っているチケットをこっそり見ようとしていた。
傍から見ると不審者にしか見えなかったが、僕のほうにもやって来たので、チケットを見せてあげた。
おじさんは辺りを少し回ったあと、再び僕の隣にやって来た。
話しかけられ、挨拶らしきものをいわれたが、僕は全く理解ができず、そのことを英語で伝えた。
おじさんの英語はカタコトであったが、なんとか会話ができた。
彼はイラン人で、さっき話しかけてきたのはペルシャ語だった。
息子がウクライナで勉強していて、彼に会いに11日間滞在していたという。
おじさんはタイにも行ったことがあるらしく、どうだったか聞いてみると、ウクライナよりも良かったと答えた。
タイではみんな自分に対してフレンドリーに話しかけてくれたのに、ウクライナではそうでなかったからだ。
現地の人と一緒に行動するのと、外国人として旅行をするのでは、見える世界が大きく変わるのだろう。
僕の場合、人に恵まれたと思う。

彼との会話が盛り上がったので、気付いたら搭乗ゲートが開いていた。
おじさんがあまりにもフレンドリーだったので、リュックのファスナーを確認し、無くなったものはないか一応確認した。
問題なかったので、彼は根っからいい人なのだと思った。

彼は席の前の方に、僕は後ろの方だったので、飛行機に乗っているときに彼と話す機会はなかった。

モスクワに到着し、飛行機から降りるのを待っているときにも、たまたまイラン人のおじさんと出くわし、少し話をした。
手荷物検査ときに別々になり、トランジットのために空港内を移動しているときに再び遭遇した。
搭乗ターミナルが違うので、その場で握手をして別れた。

「君は自信に満ち溢れている」
彼は僕にそう言った。

また会う日まで

2011年9月25日(日)

15日間のウクライナ滞在もこれが最後になってしまった。
振り返ってみると、毎日が充実していて、飽きることがなかった。
Facebookのタイムラインに、
"Today it's my first trip to Japan."
と書き込んだ。
ウクライナは僕の第二の故郷である。

最後の朝食をとり、荷物をまとめてヴィクトアが車で迎えに来てくれるまで部屋でくつろぐ。
食後のデザートにパンにイクラを乗せたものが出た。
しばらくすると、アルトゥールの家族がやってきた。
少しジョージとも遊んだ。

出発の時が来た。
ルーダとハグをした。
いつでも戻ってきていいと言われ、嬉しかった。
キャリーバッグが来たときよりも重くなっていた。
中にはお土産が詰まっている。

車に乗り、ボリスポリ空港へ向かう。
少し回り道して、キィーヴ市内をドライブしてくれた。
僕にとって親しみのある景色ばかりだった。

街を抜けると空港に直行する。
ハイウェイの制限速度は初めてウクライナに来た日と同じく130㎞だった。
空を飛ぶ飛行機がだんだん大きくなっていることで、空港が近づいていると感じる。

僕の乗る飛行機は30分遅延していた。
チェックインカウンターでアルトゥールとヴィクトアが確認してくれた。

チェックインを済まし、手荷物検査のゲートの前に行く。
ここで本当の別れとなる。
ヴィクトアと握手を、アルトゥールとジョージにはハグをした。
ジョージが本気で寂しがっていた。

無事に着いたら連絡するとアルトゥールに約束し1人でゲートをくぐった。

農家の夫婦に誘われて

家に戻ると、アルトゥールの家族が来ていた。
そしてすぐに出かける準備をするように言われた。
もう夕方なので、後はゆっくり休んで明日の出国に備えるだけだと思っていたところなので、予想外だった。

いつもの日産車に乗ってキエフ郊外へ。
ジョージはもっと家で遊んでいたかったらしく、家を出たときは拗ねていたが、車内で日本から持ってきたプチを食べて機嫌が直っていた。
今日は酪農家へ新鮮な乳製品を買いに行くのだという。

道路の両側は収穫後の枯れ草色をした畑が延々と広がっていた。
車をしばらく走らすと、牛の行列が道路を横断していた。
牛が向かっている方向に沿って車も進んでいくと、酪農家の家があった。
牛は自分たちで牛舎の中に入っていく。
ヴィクトア、ジョージが牛舎の中に入っていたが、僕は臭いがひどすぎて入口にすら近づけなかった。

牛舎の向かいが酪農家の家で、右手には大量のカボチャの山と、餌に群がるアヒルたちがいた。
ここは老夫婦で営まれており、2人とも小太りで人の良さそうな顔をしていた。
老夫婦は食事の用意をしていた。
ウクライナの伝統的なおもてなしの方法だった。
家のそばにある木のしたにテーブルがあり、食べきれないほど多くの料理が並べられていった。
老夫婦が飼っている若い猫が1匹いて、ジョージがそれを見つけるたび追っかけ回していた。

猫に夢中のジョージを除き、全員席につく。
老婦人が自家製のヴォトカを僕とアルトゥールのために小さなグラスについでくれた。
乾杯をし、一気にグラスを飲み干す。
喉が焼けるような感覚がする。
アルコールは55%だという。
ヴォトカのあてにはチリソースの付いたサーロが出された。
アルトゥールを通じて、婦人とも会話した。
日本では朝何を食べているのか聞かれた。
僕は米も食べるが、パンも食べると答えた。
日本は食の幅が広いので、一般的に何を食べているのか聞かれると返事に困る。
グラスが空になると、ヴォトカを注いでくれる。
僕は2杯と軽く1杯、アルトゥールと夫人が3杯飲んでいた。
夫人の飲みっぷりが豪快だった。
アットホームな雰囲気で、とても居心地が良かった。

ジョージの襲撃を逃れるために、猫がテーブルの下に潜り込んできた。
ジョージに見つかるまで、そのままにしておいた。

出発するとき、辺りはすっかり暗くなっていた。
老夫婦の家の明かりと車のライト以外に光はない。
別れるとき夫人とハグをした。
「ド・ホバチンニャ」と彼らが言うのを僕はおうむ返しした。

明日がいよいよ最終日である。

スピーチの内容は

スピーチコンテストが始まった。
中村さんが「この生徒はうまいよ」と言っていたキエフ言語大学の学生も出ていた。
2人とも発音がとてもうまくて、ネイティブの発音に近かった。
このうち1人は日本語の細かいニュアンスまで理解していると感じた。

プログラムを見てみると、大学名にハリキフ、リヴィヴ、ドニェプロペトロフスクなどとあるので、ウクライナ各地の大学から学生が集まっているようだ。
スピーチのテーマは花言葉、ダイエット、野犬や自殺などの社会問題、フラッシュモブ、家族など様々だった。

印象に残ったのは、ダイエットと花言葉の話。
私はいろいろなダイエットを試してきましたというくだりで始まる。
もちろん全て長続きしないのだが、これは女性にとってグローバルな問題なのだと実感する。

花言葉については、ウクライナにはそもそも花を送る文化が根付いているので、そういったところに興味があるのかと思った。

スピーチをしているのは全て女性で、中には服装がどこかオタクチックな子もいた。

タラスシェフチェンコ大学の学生はやはり頭が良いのだろう。
発音がいまいちなところがあっても、話の組み立てや、質問への返答は適確だった。

休憩時間に、日本人を見つけて話に行った。
日本企業の重役の方というのは、三井物産の社員の方だった。
話しかけたら割と素っ気なくあしらわれたが、ウクライナでビジネスをすることについて聞いてみた。
彼は、10年、20年後には伸びるかもしれないと答えた。
資源はあるが、すぐに経済成長することは期待できないようだ。

昨日のご縁で

2011年9月24日(土)

偶然の出会いというものは面白いもので、人生を思わぬ方向へ導いてくれることがある。

昨日、ウクライナ・日本語センターで会った学生に、日本語スピーチコンテストを観に来ないかと誘われた。
ウクライナの学生が日本語でスピーチコンテストを行い、日本の会社の重役の方も参加されるらしかった。
昨日彼らに会った偶然だけでなく、スピーチコンテストが今日というのも奇跡的なタイミングだった。
なにせ僕は明日ウクライナを出発するのだから。

コンテストは正午にキエフ・言語大学(Kiev Linguistic University)で行われた。
そのため"いつもよりも"早起きをしなければならなかった。
メトロのオリンピースカという駅を降りて、大学のある方向に向かうと、会場案内の張り紙が日本語で書かれていた。
大学の講堂に入ると、受付のウクライナ人の学生に日本語で対応された。

日本語のスピーチコンテストだけあって、日本人の教師や、手伝いで来ている日本人の学生に出会った。
坂口さんという人に出会ったが、彼は日本の大学を中退し、働き始めたが、もう1度学び直したいということで、ここでロシア語を学んでいるという。
昨日会った中村さんや、ウクライナ人の学生たちも見かけた。
僕とアルトゥールは会場の後ろの席に座った。
ウクライナでは日本人はほとんど見かけない。
アルトゥールの家の近くに美術学校があり、そこに中国人がいて、たまに見かけるが、アジア人自体がかなりのマイノリティである。
スピーチコンテストが始まるまで、坂口さんと話していたが、彼がウクライナに来たときは、日本の学生は1人もいなくて、大変苦労されたらしい。

日本に来ている留学生の気持ちがちょっと分かった

日本にいると、日本政府の批判ばかりするのが主流であるが、ウクライナに来てみると、意外なところで仕事をしていると実感するものである。

ウクライナで有名な工学系の大学の敷地に、ウクライナ・日本センターというものが存在する。
久しぶりの日本語表記に思わずテンションが上がる。
中に入れるとのことなので、さっそくお邪魔してみる。
内部には、背の低い本棚に日本語で書かれた本が並べられていた。
小学生以来、お目にしたことのなかった本まであって、日本語の勉強に使っているのだろうか。

入口を入って左手の受付があり、スキンヘッドで体格のいいアジア顔の男性が立っていた。
彼が日本人だということを、見た瞬間は認識できなかった。
後で分かったことだが、中村さんというらしい。

気を改めて中村さんに日本語で自己紹介した。
久しぶりに日本語を使うのは新鮮だった。
会話をしていると、中村さんが近くを通りかかった生徒をつかまえて、僕を紹介してくれた。
彼女はアンナさんという名前で、大学で日本語を勉強していた。
ゆっくりめの日本語で会話をしていると、物珍しさからわらわら生徒が集まってくる。
アルトゥールが大学で友達を大量に紹介してくれたあの時を思い出した。

僕の大学には、留学生が空いた時間に待機していて、英語で日本の学生と気軽に会話ができる部屋、というものがある。
僕は現在、ウクライナの学生に囲まれて、全員日本語を話すという世にも奇妙な世界にいる。
うちの大学で英語を話してくれる留学生はこのような心境なのだろうか?
外国人の話す日本語は、ネイティブからするとどうしても違う。
ある女の子が話し相手を指すときにふつうに「お前」と言っていたのは、指摘するべきだった。
彼らの話す日本語は、違和感があるが、必死さが伝わるので、意味は理解できる。
これは英語に置き換えても同じことである。

時間を忘れるほど、ウクライナ・日本語センターにいる学生との会話は楽しかった。
アルトゥールと話そうとすると、頭の中で英語と日本語が混ざってしまって言葉が少し出にくくなったと感じた。
僕が日本語で喋っているあいだ、アルトゥールは日本語の本を眺めてみたりして、時間をつぶしていたらしい。
彼は殆ど日本語は分からないので、申し訳なさを感じた。

日が暮れるころ、彼らが外で盆踊りの練習をするというので、一緒について行った。
Youtubeで踊りを真似するのだが、彼らが見ていたのは盆踊りでなく、阿波踊りだった(笑)
楽しそうにしていたので、輪の中に入って一緒に踊った。

日本で盆踊り(阿波踊り)とか、やったこともなかったし、人前で踊るのも古臭くて嫌だと思っていたが、日本の文化に興味を持っている人たちにとっては、それが独特の良さを醸し出すのだろう。
そして、今僕が感じているウクライナの素晴らしさの中には、彼らにとっては普通過ぎて気付いていないものも多くあると思うし、外からの視点で国を眺める大切さを感じた。