あとがき:ブログを書き終わって感じたこと

このブログを書くと決意して、すでに2年が経ってしまった。
長文を書くことに慣れておらず、途中で投げ出したことも何度かあったが、最後まで書ききれたのは、自分のウクライナの経験は間違いなく面白かったという信念、徐々に伸びていったページビュー数、そして未だにウクライナとつながっているという気持ちがあったからだと思う。

アルトゥールとは、いまだに文通しあう仲である。
お互いに忙しくなってはいるが、定期的なやりとりは続いているし、クリスマスと誕生日にポストカードを送るのは毎年欠かさないようにしている。
どちらも非常にマメな性格なのである。

2年間で様々な変化があった。
僕は去年の秋から今年の春まで、念願だった留学にいくことができ、アルトゥールは今年からロンドンの大学院に入る。
2年前から比べると多きな飛躍である。
互いの成功を心から喜び、いい刺激にもなった。

僕にとって、このウクライナ旅行は自分の人生の分岐点になったと思う。
直観で感じるままに動くという無鉄砲さに磨きがかかり、人生何とでもなると考えるようになっただけでなく、日本社会の「当たり前」に疑問を持ち、異文化への興味を深めた。
この疑問はドイツ留学のときも持ち続け、ワークライフバランスと自分の将来のキャリアを考えるきっかけとなった。

ひと言つけ加えておくが、僕がやってきたことを決して真似してほしい訳ではない。
ネット上で仲良くなった人に会いに行くというのは安全だという保証はないし、僕より遥かに理性的な大学の友達は、旅行の計画を話すと、僕を猛烈に非難した。

人生は正解・不正解で割り切れるものではなく、考え方しだいでは、全ての選択肢が正解へ変わってしまうものである。
もし、約束の場所にアルトゥールが現れなかったら、僕は本当にウクライナを単独で旅するクレイジーな旅行をしていたに違いない。
最悪のシナリオも想定していたが、そのときは覚悟を決めていた。
どのようなシナリオであっても、僕は経験から何かを得ていたことだろう。

ウクライナだけでなく、留学を含めた海外経験全般に基づいて言えることだが、日本社会ではこうすべきだという「枠」というものがあり、それに人々が合わせている感が否めない。
本心ではこう思うのだけれど、行動が伴わない人を多く見てきた。
なぜ、自分の心の声に従わないのか?
僕は特異なことをやれと言いたいのではない。
自分の心の中にくすぶっている「本当にやりたいと感じるもの」が社会の「枠」から外れているからと躊躇しないでほしいと言いたいのである。
社会の非常識は別の社会では常識に見られることがある。

ことわざに「意志あるところに道あり」というものがある。

僕は道なき道を好んで通ってきたが、しばらく歩くと、すでに整備された道があったというのはよくあることだった
ことわざの意味とは少し違うが、意志を持って進んでいたら、すでに同士がいたという経験をよくした。

このウクライーナ滞在記は、現在の自分の価値観の根底になっていて、読者の方々に、こういった生き方もあるのだと知っていただければと思う。

読者の方々、ウクライナの旅で本当に良くしてくれたアルトゥール一家とその周りの人々に感謝申し上げる。


2013年9月

0 件のコメント:

コメントを投稿