番外編:突然やってきた現実感

モスクワーソウル行きの搭乗口に入ると、そこは別世界だった。
長らくお目に掛らなかったアジア人が多くいて、違和感を感じた。
見た目からほとんどは韓国人で、中高年層が多かった。

丸2週間もウクライナに滞在していたため、逆カルチャーショックというものを味わう。
ウクライナに来た当初は、ウクライナ人のルックスに違和感を感じていたように、アジア人のルックスに違和感を感じていた。
具体的に言うと、ウクライナに来たときは、ウクライナ人て美人だけど、アジアの子がやっぱり好みだと思っていたのが、だんだん良さが分かってきて、ウクライナの子もありかもと感じるようになると、アジアの子がすごく地味で自信なさげに見えたということである。
(注:この症状は日本に戻って目のリハビリを行うことで徐々に改善されていった。)

韓国までは8時間の長旅である。
機内が暗くなり、周りが眠っているときでも、ウクライナで起こったことが頭の中で駆け巡り、眠れなかった。
飛行機は中国上空に差し掛かり、外もすでに明るくなったころにかなり眠くなって1時間ほど眠った。

飛行機を降りると、疲労で体が重かった。
仁川空港には日本語で書かれた看板や案内板があって、日本までもうすぐだと感じた。
チェックインを済ませると、搭乗まで2時間あったが、まっすぐ搭乗口に向かい、ベンチに座ってぐったりしていた。
少し元気になったので、たまにWi-Fiを使って携帯をいじっていた。
目の前を通る人々を観察していたが、ウクライナでやっていたほど楽しくはなかった。
ウクライナに対してホームシック気味だった。

エアロフロートからアシアナに乗ると、クオリティの差を感じた。
清潔感があるのは、さすが韓国の会社だと思った。
関空まで1時間半。
8時間の長旅を耐えてきた身には余裕だった。
隣のおばちゃん2人組と仲良くなり、あっという間に時間が過ぎた。

おばちゃんたちは、韓国で歌手のライブを見に行っていたらしい。歌手の名前を覚えていないが、兵役に行くためラストライブだったらしい。
あとは本場のサムゲタンを食べたらしい。
韓国は活気があってすごかったと言っていた。
2週間の英語生活のため、無意識のうちに日本語が訛っていたようで、おばちゃんたちに韓国人だと思われていた。

番外編:キエフの空港で

ここからは、アルトゥールたちと別れてから、日本に帰ってくるまでにあった出来事を書いていく。
ウクライナでの滞在と同様、最後まで僕を楽しませてくれた。

飛行機が30分遅延しただけでなく、さらに搭乗時間も遅くにずれ込んだ。
行きのモスクワーキィーヴ間の便も遅延していたが、航空会社はいずれもロシアのエアロフロートである。

搭乗口にはすでに行列ができていた。
ただ、搭乗時間を過ぎてもゲートが開かないのである。
僕は他の人たち同様、チケットを手に持ち、意味も分からず立ち尽くしていた。
僕から2,3人前のところに、鼻が高く、彫りの深い初老のおじさんがいた。
彼は自分前後を行ったり来たりして、他の人の持っているチケットをこっそり見ようとしていた。
傍から見ると不審者にしか見えなかったが、僕のほうにもやって来たので、チケットを見せてあげた。
おじさんは辺りを少し回ったあと、再び僕の隣にやって来た。
話しかけられ、挨拶らしきものをいわれたが、僕は全く理解ができず、そのことを英語で伝えた。
おじさんの英語はカタコトであったが、なんとか会話ができた。
彼はイラン人で、さっき話しかけてきたのはペルシャ語だった。
息子がウクライナで勉強していて、彼に会いに11日間滞在していたという。
おじさんはタイにも行ったことがあるらしく、どうだったか聞いてみると、ウクライナよりも良かったと答えた。
タイではみんな自分に対してフレンドリーに話しかけてくれたのに、ウクライナではそうでなかったからだ。
現地の人と一緒に行動するのと、外国人として旅行をするのでは、見える世界が大きく変わるのだろう。
僕の場合、人に恵まれたと思う。

彼との会話が盛り上がったので、気付いたら搭乗ゲートが開いていた。
おじさんがあまりにもフレンドリーだったので、リュックのファスナーを確認し、無くなったものはないか一応確認した。
問題なかったので、彼は根っからいい人なのだと思った。

彼は席の前の方に、僕は後ろの方だったので、飛行機に乗っているときに彼と話す機会はなかった。

モスクワに到着し、飛行機から降りるのを待っているときにも、たまたまイラン人のおじさんと出くわし、少し話をした。
手荷物検査ときに別々になり、トランジットのために空港内を移動しているときに再び遭遇した。
搭乗ターミナルが違うので、その場で握手をして別れた。

「君は自信に満ち溢れている」
彼は僕にそう言った。

また会う日まで

2011年9月25日(日)

15日間のウクライナ滞在もこれが最後になってしまった。
振り返ってみると、毎日が充実していて、飽きることがなかった。
Facebookのタイムラインに、
"Today it's my first trip to Japan."
と書き込んだ。
ウクライナは僕の第二の故郷である。

最後の朝食をとり、荷物をまとめてヴィクトアが車で迎えに来てくれるまで部屋でくつろぐ。
食後のデザートにパンにイクラを乗せたものが出た。
しばらくすると、アルトゥールの家族がやってきた。
少しジョージとも遊んだ。

出発の時が来た。
ルーダとハグをした。
いつでも戻ってきていいと言われ、嬉しかった。
キャリーバッグが来たときよりも重くなっていた。
中にはお土産が詰まっている。

車に乗り、ボリスポリ空港へ向かう。
少し回り道して、キィーヴ市内をドライブしてくれた。
僕にとって親しみのある景色ばかりだった。

街を抜けると空港に直行する。
ハイウェイの制限速度は初めてウクライナに来た日と同じく130㎞だった。
空を飛ぶ飛行機がだんだん大きくなっていることで、空港が近づいていると感じる。

僕の乗る飛行機は30分遅延していた。
チェックインカウンターでアルトゥールとヴィクトアが確認してくれた。

チェックインを済まし、手荷物検査のゲートの前に行く。
ここで本当の別れとなる。
ヴィクトアと握手を、アルトゥールとジョージにはハグをした。
ジョージが本気で寂しがっていた。

無事に着いたら連絡するとアルトゥールに約束し1人でゲートをくぐった。

農家の夫婦に誘われて

家に戻ると、アルトゥールの家族が来ていた。
そしてすぐに出かける準備をするように言われた。
もう夕方なので、後はゆっくり休んで明日の出国に備えるだけだと思っていたところなので、予想外だった。

いつもの日産車に乗ってキエフ郊外へ。
ジョージはもっと家で遊んでいたかったらしく、家を出たときは拗ねていたが、車内で日本から持ってきたプチを食べて機嫌が直っていた。
今日は酪農家へ新鮮な乳製品を買いに行くのだという。

道路の両側は収穫後の枯れ草色をした畑が延々と広がっていた。
車をしばらく走らすと、牛の行列が道路を横断していた。
牛が向かっている方向に沿って車も進んでいくと、酪農家の家があった。
牛は自分たちで牛舎の中に入っていく。
ヴィクトア、ジョージが牛舎の中に入っていたが、僕は臭いがひどすぎて入口にすら近づけなかった。

牛舎の向かいが酪農家の家で、右手には大量のカボチャの山と、餌に群がるアヒルたちがいた。
ここは老夫婦で営まれており、2人とも小太りで人の良さそうな顔をしていた。
老夫婦は食事の用意をしていた。
ウクライナの伝統的なおもてなしの方法だった。
家のそばにある木のしたにテーブルがあり、食べきれないほど多くの料理が並べられていった。
老夫婦が飼っている若い猫が1匹いて、ジョージがそれを見つけるたび追っかけ回していた。

猫に夢中のジョージを除き、全員席につく。
老婦人が自家製のヴォトカを僕とアルトゥールのために小さなグラスについでくれた。
乾杯をし、一気にグラスを飲み干す。
喉が焼けるような感覚がする。
アルコールは55%だという。
ヴォトカのあてにはチリソースの付いたサーロが出された。
アルトゥールを通じて、婦人とも会話した。
日本では朝何を食べているのか聞かれた。
僕は米も食べるが、パンも食べると答えた。
日本は食の幅が広いので、一般的に何を食べているのか聞かれると返事に困る。
グラスが空になると、ヴォトカを注いでくれる。
僕は2杯と軽く1杯、アルトゥールと夫人が3杯飲んでいた。
夫人の飲みっぷりが豪快だった。
アットホームな雰囲気で、とても居心地が良かった。

ジョージの襲撃を逃れるために、猫がテーブルの下に潜り込んできた。
ジョージに見つかるまで、そのままにしておいた。

出発するとき、辺りはすっかり暗くなっていた。
老夫婦の家の明かりと車のライト以外に光はない。
別れるとき夫人とハグをした。
「ド・ホバチンニャ」と彼らが言うのを僕はおうむ返しした。

明日がいよいよ最終日である。

スピーチの内容は

スピーチコンテストが始まった。
中村さんが「この生徒はうまいよ」と言っていたキエフ言語大学の学生も出ていた。
2人とも発音がとてもうまくて、ネイティブの発音に近かった。
このうち1人は日本語の細かいニュアンスまで理解していると感じた。

プログラムを見てみると、大学名にハリキフ、リヴィヴ、ドニェプロペトロフスクなどとあるので、ウクライナ各地の大学から学生が集まっているようだ。
スピーチのテーマは花言葉、ダイエット、野犬や自殺などの社会問題、フラッシュモブ、家族など様々だった。

印象に残ったのは、ダイエットと花言葉の話。
私はいろいろなダイエットを試してきましたというくだりで始まる。
もちろん全て長続きしないのだが、これは女性にとってグローバルな問題なのだと実感する。

花言葉については、ウクライナにはそもそも花を送る文化が根付いているので、そういったところに興味があるのかと思った。

スピーチをしているのは全て女性で、中には服装がどこかオタクチックな子もいた。

タラスシェフチェンコ大学の学生はやはり頭が良いのだろう。
発音がいまいちなところがあっても、話の組み立てや、質問への返答は適確だった。

休憩時間に、日本人を見つけて話に行った。
日本企業の重役の方というのは、三井物産の社員の方だった。
話しかけたら割と素っ気なくあしらわれたが、ウクライナでビジネスをすることについて聞いてみた。
彼は、10年、20年後には伸びるかもしれないと答えた。
資源はあるが、すぐに経済成長することは期待できないようだ。

昨日のご縁で

2011年9月24日(土)

偶然の出会いというものは面白いもので、人生を思わぬ方向へ導いてくれることがある。

昨日、ウクライナ・日本語センターで会った学生に、日本語スピーチコンテストを観に来ないかと誘われた。
ウクライナの学生が日本語でスピーチコンテストを行い、日本の会社の重役の方も参加されるらしかった。
昨日彼らに会った偶然だけでなく、スピーチコンテストが今日というのも奇跡的なタイミングだった。
なにせ僕は明日ウクライナを出発するのだから。

コンテストは正午にキエフ・言語大学(Kiev Linguistic University)で行われた。
そのため"いつもよりも"早起きをしなければならなかった。
メトロのオリンピースカという駅を降りて、大学のある方向に向かうと、会場案内の張り紙が日本語で書かれていた。
大学の講堂に入ると、受付のウクライナ人の学生に日本語で対応された。

日本語のスピーチコンテストだけあって、日本人の教師や、手伝いで来ている日本人の学生に出会った。
坂口さんという人に出会ったが、彼は日本の大学を中退し、働き始めたが、もう1度学び直したいということで、ここでロシア語を学んでいるという。
昨日会った中村さんや、ウクライナ人の学生たちも見かけた。
僕とアルトゥールは会場の後ろの席に座った。
ウクライナでは日本人はほとんど見かけない。
アルトゥールの家の近くに美術学校があり、そこに中国人がいて、たまに見かけるが、アジア人自体がかなりのマイノリティである。
スピーチコンテストが始まるまで、坂口さんと話していたが、彼がウクライナに来たときは、日本の学生は1人もいなくて、大変苦労されたらしい。

日本に来ている留学生の気持ちがちょっと分かった

日本にいると、日本政府の批判ばかりするのが主流であるが、ウクライナに来てみると、意外なところで仕事をしていると実感するものである。

ウクライナで有名な工学系の大学の敷地に、ウクライナ・日本センターというものが存在する。
久しぶりの日本語表記に思わずテンションが上がる。
中に入れるとのことなので、さっそくお邪魔してみる。
内部には、背の低い本棚に日本語で書かれた本が並べられていた。
小学生以来、お目にしたことのなかった本まであって、日本語の勉強に使っているのだろうか。

入口を入って左手の受付があり、スキンヘッドで体格のいいアジア顔の男性が立っていた。
彼が日本人だということを、見た瞬間は認識できなかった。
後で分かったことだが、中村さんというらしい。

気を改めて中村さんに日本語で自己紹介した。
久しぶりに日本語を使うのは新鮮だった。
会話をしていると、中村さんが近くを通りかかった生徒をつかまえて、僕を紹介してくれた。
彼女はアンナさんという名前で、大学で日本語を勉強していた。
ゆっくりめの日本語で会話をしていると、物珍しさからわらわら生徒が集まってくる。
アルトゥールが大学で友達を大量に紹介してくれたあの時を思い出した。

僕の大学には、留学生が空いた時間に待機していて、英語で日本の学生と気軽に会話ができる部屋、というものがある。
僕は現在、ウクライナの学生に囲まれて、全員日本語を話すという世にも奇妙な世界にいる。
うちの大学で英語を話してくれる留学生はこのような心境なのだろうか?
外国人の話す日本語は、ネイティブからするとどうしても違う。
ある女の子が話し相手を指すときにふつうに「お前」と言っていたのは、指摘するべきだった。
彼らの話す日本語は、違和感があるが、必死さが伝わるので、意味は理解できる。
これは英語に置き換えても同じことである。

時間を忘れるほど、ウクライナ・日本語センターにいる学生との会話は楽しかった。
アルトゥールと話そうとすると、頭の中で英語と日本語が混ざってしまって言葉が少し出にくくなったと感じた。
僕が日本語で喋っているあいだ、アルトゥールは日本語の本を眺めてみたりして、時間をつぶしていたらしい。
彼は殆ど日本語は分からないので、申し訳なさを感じた。

日が暮れるころ、彼らが外で盆踊りの練習をするというので、一緒について行った。
Youtubeで踊りを真似するのだが、彼らが見ていたのは盆踊りでなく、阿波踊りだった(笑)
楽しそうにしていたので、輪の中に入って一緒に踊った。

日本で盆踊り(阿波踊り)とか、やったこともなかったし、人前で踊るのも古臭くて嫌だと思っていたが、日本の文化に興味を持っている人たちにとっては、それが独特の良さを醸し出すのだろう。
そして、今僕が感じているウクライナの素晴らしさの中には、彼らにとっては普通過ぎて気付いていないものも多くあると思うし、外からの視点で国を眺める大切さを感じた。

イラ再び

2011年9月23日(金)

朝(昼前?)に起きると、アルトゥールに「昨日の晩、何か寝言を言っていた」と言われた。
昨夜見た女の子の名前を覚えようとしていたのかもしれない。

今日もイラに会った。
昼過ぎにマイダン・ネザレージュノスティで待ち合わせ、レストランに入った。
イラは昼食をとり、アルトゥールと僕は、朝食が遅かったので飲み物で済ました。

こちらに来てから、アルトゥールにおごってもらってばかりである。
ATMから400フリブナ(4000円相当)下したのに、まだ財布に200フリブナ残っている。
彼にはだいぶ借りを作ってしまった。
もちろん、いつか恩に報いようと思っているが。

アルトゥールとイラは見ていて本当に仲が良さそうだ。
付き合っているわけではないが、よく電話するし、一緒に散歩もするし、こんな風にご飯にも行く。
本当にイラはよく喋る。

レストランを出てしばらく歩くと、イラは仕事があるというので別れた。
数回会った程度だったが、ハグをして別れることができたので、友達として認められたようだ。

特集:日本では見られないだろう、ウクライナの日常風景

写真を見返していたら、ウクライナに来たばかりのときはショックだった光景があったので紹介する。

ストッキングと女性用下着の路上販売
アルトゥールの通う大学の最寄駅にあった。
ターゲットは学生だろうか?
10フリブナ(100円程度)というお手頃価格。

歩道に駐車
キィーヴ市内に駐車スペースは存在せず、車はみんな歩道に乗り上げて停められている。
歩道がかなり広いので、歩行者の妨げになるわけではないが、段差を乗り上げたときに車体が傷つくのは気にならないのか?
高級車であってもお構いなし。

食後のチャイの時間

とある日のチャイの様子
手作りのいちごジャムとレモンティー
晩御飯の後はいつもレモンティーを飲みながら、音楽番組を見たり、アルトゥールと雑談をして過ごしている。

Facebookは世界のどこに行っても知らない人はいないが、ウクライナではそれに加えて東欧を中心にしたSNSサービスが有名らしい。
日本でいうmixiのような存在である。
ちょっとアルトゥールに見せてもらうと、中身はmixiとは大分違う印象を持った。

Facebookと比べて、仲間内で楽しめるため、写真がかなりオープンなのである。
アルトゥールの友人のプロフィール写真を見ると、男なら上半身裸で鍛え上げられた肉体美を披露していたり、女性なら水着だったり、モデルばりにポーズを決めていたりした。
周囲に見せつける行為を憚る文化がある日本とは対照的だった。

これまで紹介してくれた友達の写真を見せてくれたが、ほとんど覚えていなかった。
ウクライナに来たばかりに大学で多くの友達に会わせてくれたが、数が多すぎた。
今度会ったときのためにと、顔と名前を一致させるようにしばらく頑張ってみた。

これは好みが分かれる

ルーダの作ってくれる食事は、1日のうちで大きな楽しみの1つだった。
アルトゥールがときどき冗談で、
「もしキィーヴにとどまらず、1人で旅行していたら、No Luda, No foodだ」
などと言っていた。

家に帰るといつものごとく空腹だった。
いつもどおりトマト、パプリカが並べられているなかに、
今晩は器に茹でたレバーが山盛りになっていた。
個々のレバーがひと口で食べきれないほど巨大だった。

アルトゥールはレバーが嫌いで、
「これだけは食べ物とは思えない」
とこぼしていた。

とりあえず1つ取って食べてみた。
不味くはないが、少し味気がなかった。
自分の好みで塩コショウを振らなければならない。

アルトゥールはやっとのことで、レバーをひとかたまり、僕は3つ平らげたが、器の中は半分減った程度でだった。

余ったレバーは翌朝レバーペーストになって再び出てきた。

風車のあるところへ

マルシュルートカはどんどん進んでいく。
先週末も同じ道を通っていたことを思い出した。

大通りをそれ、両側に背の高い木々が生い茂った道を走っているとき、急にバスの後ろの席から男性の怒ったような声が聞こえた。
どうやら、運転手は目的地を素通りしていたようだ。
その男性に続いて僕たちもバスを降りる。
「風車公園」までは歩いて行かなければならない。
アルトゥールが気にしていたのは、バスの運転手のうっかりではなく、怒っていた男性の方だった。
彼の言葉づかいは非常に乱暴で、これもソ連時代の負の遺産なのだという。
誰も丁寧な言葉遣いをしないらしい。

お目当ての施設は、17:00までに行かないと入場券を買うことができなくなるなる。
あと5分しかなかったので、少し走った。
ゲートの前に着いたとき、受付は閉まっていたが、アルトゥールが係員と交渉して開けてもらった。
ギリギリ間に合ったようだ。

この場所の名前が分からず申し訳ないが、ウクライナの伝統的な農村風景が再現された場所で、とてもいいところだった。
なだらかな丘陵地にぽつぽつと風車が建てられている。
これは麦を脱穀するために使われ、実りの時期には周囲が麦の穂で覆い尽くされていたことだろう。

余談だが、ウクライナは人口の割に土地が非常に多く、昔の農家は他の農家とは離れ離れになっていたらしい。
そのためウクライナが侵略された場合、みんなで協力して国を守るという概念がなく、簡単に占領されてしまったらしい。
しかし、ソ連の時代になると、団結しないと自分たちの文化を滅ぼされてしまうため、協力しあう文化が生まれたのである。
この傾向は現在まで続いているのだという。

こちらは伝統的なウクライナの家
と、家畜小屋。
藁葺屋根でどこかしら日本のものに似た趣がする。

木製の教会
とにかく広々として、開放的な気分になる。



Oh My マルシュルートカ

マルシュルートカとは、ウクライナで一般的な乗合バスのことである。
今日はこれを利用して、日曜日に行くことのできなかった風車のある場所(名前は分からない)に行くことに。

前回はアルトゥールの家族と車で直行だったが、今回はメトロで行けるところまで行き、途中でマルシュルートカ(以後バス)に乗り換えることに。

メトロで目的地に着いたところまでは順調だった。
地上に出ると、バスターミナルらしきところに来たのだが、お目当てのバスが見当たらない。
バスが停まっている辺りを一周してみたが、見当たらない。
アルトゥールは前にこの辺りでバスを見たことがあると言った。
バスの番号を教えてもらい、一緒に探してみたが駄目だった。
ウクライナでは、バス停のないバス乗り場というものがあり、どこに停まるのかは地元民のみぞ知るらしい。
確認のためアルトゥールは他の人に聞いてみたが、確かにこのあたりに普段はバスが来るらしい。
ただし本数が非常に少ないようだ。
日本のな時刻表というものも存在しなくて、何分間隔でバスが来る程度しか表示がない。
しかも、本当にその間隔で来る保証もない。
ウクライナの交通システムの脆弱さを思い知った瞬間だった。

2人で途方に暮れていたら、ようやくバスがやって来た。
マルュートゥカというのは、見た目はミニバスだが、降りたいところで運転手にひと声かければ、好きなところで下してくれるタクシーのような一面も兼ね備えた乗り物である。
値段は2.5~3フリブナくらい(30円程度)でお金は運転手の手元に勝手に置いていく。
後ろの座席の人は、お金を前の人に渡して運転手まで運んでもらうのがここのスタイル。
にわか旅行者には少しレベルが高い乗り物だろうか。

僕がウクライナを旅行しているとき、マルシュルートカという曲名の音楽が流行っていた。

アルトゥールの部屋で音楽番組を見ていたら、頻繁にこれが流れていた。
内容は全く分からないが、演出の奇抜さに惹きつけられた。
日本ではこれは過激な部類に入ると思ったので、文化の違いも感じた。
この動画を見て、ウクライナ人がどのような人種か大体分かるだろうが、ボーカルのいかついオッチャンのような人は街中ではあまり見かけなかった。
どちらかというとアルトゥールのように細くてとても長い人間が多い。
アルトゥール曰く、この歌は「マルシュルートカは犬小屋のようなものだ」などと、乗り合いバスを面白おかしく歌ったものだという。

お湯が出なくても

2011年9月22日(木)
昨夜は遅くまで起きていたので、朝にシャワーを浴びることになった。
数日前から家の水道管が故障したため、お湯が出ない状態が続いている。
そのため、シャワーをするときには、ルーダがお湯を沸かしてくれる。

シャワー室の浴槽には、指を入れると熱いと感じる程度のお湯が入った2つの洗面器が置かれている。
これを水で薄めて体を洗うのだ。
最低限のお湯で髪を濡らし、シャンプーをつける。
すすぐときもお湯を少しずつ頭にたらしてできるだけ泡を落とす。
慣れてくると体を洗い終わったあとに、少しお湯が余って、体を温めるためだけに使えるようになった。
どんな状況でも人間生きていけるのだと、嬉しくなった。

突然の来客

夕食をとった後、ソファーに寝ころびながら、これまで撮った写真を眺めていたときだった。
ふと部屋の入口を見上げると、どこかで見たことのある女の子が立っていた。
アルトゥールの同級生のクリスティーナだった。
あまりに不意を突かれたため、始めに口を出たのは"Why?"だった。
彼女はアルトゥールの家の隣に住んでいたのだった。
お土産としてターキッシュ・ディライト(トルコの伝統的なお菓子)を持ってきてくれた。

アルトゥールもやってきて、3人で梅酒を飲みながら、瓦せんべいを食べることになった。
これらは僕がお土産として日本から持ってきたものである。
瓦せんべいは神戸の典型的なお土産で、表面には神戸の港のデザインが焼き付けられていた。
クリスティーナはデザインを気に入ってくれたようだ。
彼女はウクライナ南部の出身で、天気のいい日が続く、農地のたくさんあるところで生まれ育ったそうだ。
そのため、彼女の肌はつやのある褐色である。
これまであってきたウクライナ人の多くが透き通るような白い肌をしていたのとは対照的である。
彼女は授業の関係で2週間ほどイギリスに行った話をしてくれた。
圧倒的な人ごみと、物価の高さにカルチャーショックをうけたらしい。

クリスティーナはダンスが得意で、目の前でオリエンタルダンスを披露してくれた。
腰を振り、黒髪をなびかせセクシーに踊る。

ダンスのお返しに、日本の音楽をYoutubeで紹介した。
すでに深夜0時を回って、ルーダも寝ているので、音量は控えめで。
歌詞が分からなくても良さが分かるようにと、選んだ曲は松任谷由美、一青窈 etc。
普段音楽を聞かないため、誰でも知っている程度の曲しか分からない。
とりあえずユーミンの「春よ来い」は、国境を越えた名曲であることが実証された。
ウクライナ人の友達と梅酒を飲みながら、日本の歌を聴く。
何とも不思議であるが、幸せなひとときでもあった。

昔の砦

独立広場からあとは適当にぶらぶら。
昔の砦が保管されている場所に連れて行ってもらった。
こちらが砦の入口
砦の門をくぐり、階段を上ると、土塁の上に大砲が飾られていた。
昔の砦と近代的な建物のコントラストになって面白いのでは、というアルトゥールのアイデア。
見返してみると悪くない。

このあたりはビジネス地区のようだ。
この教会では昔多くの人がチフスで亡くなり、遺体が敷地内に埋められたそうだ。
クワスでエナジー・チャージして。
見慣れた街中を通り抜ける。
厚手のストッキングをズボンのように履くのがこちらのファッション。

お気に入りの場所

プザタ・ハタを出てバス停まで歩いた。
イラは用事があるらしく、バスに乗った。
その後は2人で市内を散歩する。

マイダン・ネザレージュノスティという駅でメトロを降りる。
駅名はウクライナ語で「独立広場」という意味でキィーヴの中心地にあたる。
地上に出ると広々とした空間が広がり、その真ん中に塔がそびえ立つ。
広場に沿った坂道を上ると、街の様子が一望できる。
ここからの眺めは僕を開放的な気分にさせる。
ウクライナの独特な建物が均等に立ち並び、風景に統一感が感じられる。
写真の左側は独立広場で、パノラマ・ビューを写真で表現できなかったのが残念である。

教室に潜入

2011年9月21日(水)

アルトゥールが大学に行っている間、たっぷり睡眠をとり、いつもながら遅い朝昼兼用の食事をとる。
しばらくするとアルトゥールは帰宅し、1時間くらいくつろいでから一緒に家を出る。

メトロに乗り、彼の通っている大学のある駅で降りた。
急発進するメトロの中で、手すりなしでも立っていられるようになったことは少し進歩だった。
しかし、さっきまでアルトゥールは大学に行っていた訳なのになぜまたここへ来たのか不思議に思った。

校内に入るとヴァレリアに会った。
彼女と会うのは3度目だったが、ウクライナ流にハグであいさつした。(1回目に会ったときの記事
そのまま流れでクラスのミーティングに一緒に行くことに。
完全に部外者の僕は、講師に気づかれないように、背の高い学生の影に隠れて様子を見ていた。
ウクライナ語ができないので、もちろん何を言っているのかは分からない。
ただ、講師がジョークを言って場を笑わせ、ほのぼのしていた。
最後に多数決をとり、20分程度でミーティングは終了した。
学生の多くはミーティングの後、中庭で雑談していた。
僕は前に会ったことのあるアルトゥールの友達と少し喋った。

その後、イラを含めて3人で近くのプザタ・ハタへ行った。
イラは寝坊したため、朝食をとっていないという。
すでに午後1時を過ぎていたので、かなりの寝坊だと思うが、アルトゥール同様、睡眠が長いのはウクライナの国民性なのだろうか。
今日は天気がよく、少し暑いくらいだった。
レストランでイラはがっつり食事をとり、アルトゥールと僕は飲み物だけで済ました。

ウクライナではおごることは普通に行われる。
アルトゥールとイラは仲がいいので、互いにおごりあうそうだ。
今日はアルトゥールがおごる日のようで、イラの食べた分は全てアルトゥール持ち。

イラは食後に飲み物を買いに行くため、アルトゥールから少しお金をもらって席を立った。
しばらくすると、何も買わずにテーブルに戻り、アルトゥールから再びお金を受け取って去って行った。
「デザートを買うお金が足りないの(笑)」
と彼女は言ったらしい。
遠慮が全く見られないところがかえってすがすがしく思えた。

生にんにく克服

今日の晩御飯はこちら
サーロをペーストにし、刻んだにんにく、塩コショウ、香草を混ぜたもの。
これを黒パンの上に伸ばして食べるとかなりうまい。
ルーダにスマッシュノ(美味しい)とウクライナ語で言うと、ルーダは何か話してアルトゥールは苦笑した。
「美味しいならもっと食べなさい」という意味だったようだ。
そしてもう1つは、
ウクライナ・ボルシチ。
発音は「ボルッシュ」という風に聞こえる。
名誉のために何度も言っておくが、ボルシチはウクライナが元祖である。
熱々のクリーミーなスープの中に細かく刻まれたビーツがジャガイモのようにホクホクしてとてもおいしい。
ウクライナ人の家庭でおばあちゃんの手料理を食べられて本当に幸せである。

お約束通り、パプリカとトマトが大量に出てくる。
パプリカは生でも甘味があっておいしい。
あとは茹でたマカロニ、白パン、黒パン、チーズ。

今日は1つ大きな進歩があった。
それは、前回涙が出るほど苦しめられた生ニンニクを克服したことである。
少し舌がぴりっとしたが、前回ほどの衝撃はなかった。
にんにく入りサーロペーストと生ニンニクを2カケ。
翌朝の口臭が思いやられる。

仕方のないことだが

朝食後に家の近くのショッピングモールへ。
そこで世界地図を模したオブジェが。
とりあえず日本も確認してみる↓
1つの島の上に舞子と富士山らしきものが。
あくまで簡略化したものと承知だが、これを見ていると、内心ツッコミを入れたくてうずうずしていた。

特集:お気に入りの(クワス)Kbac

今回は僕が旅行中に夢中になったクワス(Kbac)という飲み物を紹介する。

クワスとは、黒パンを発行させた飲み物で、飲むとほんのりとした甘味と、黒パンの独特の風味が広がる微炭酸飲料である。
路上やスーパーで手軽に買え、喉を潤すにはちょうどいい。
アルコールも1%程度含まれているようなので、お酒に弱い人は酔っぱらってしまうかもしれない。

ウクライナを含め、東欧諸国に旅行をされる人にはぜひ飲んでほしい。
日本にはないのだが、クセになる味で、どこかの飲料メーカーが日本でクワスを製造・販売してくれないかと願っている。

僕は今回の旅行で、機会があるたびにクワスを飲んだ。
メーカーによって風味の強さや、味の濃さが変わる。
個人的には黒パンの風味が濃厚な一番上が好きだった。

慣れることも悪いもんじゃない

2011年9月20日(火)

アルトゥールは大学のない日はよく寝る。
少なくとも10時間くらい。
定期的に目覚ましが鳴っているのだが、そのたびに寝返りを打つだけで、決して昼前までは目覚めない。
僕は彼が起きるまでは何もすることが無いので、このウクライナ旅行の記録をつけている。

彼が起きると、ルーダが食事の準備を始める。
1週間以上ここでご飯を食べさせてもらっているのだが、全く飽きが来ない。
味付けがシンプルで、野菜が美味しいためかと思った。
今朝はオムレツが出た。
味付けが全くなされていないため、好みで塩を振り、パンに乗せて食べた。
手作りのトマトときゅうりのピクルスを食べた。
ウクライナ滞在1週間を経過してから、写真を撮る回数が急激に減った。
当初は全てが目新しく見えていたものが、今では普通になってしまっていたからだ。
今思えば、他の家の料理を毎食写真に収めていたことも変に感じてくる。

散歩をする道も、1度訪れたことのある場所が多くなった。
今日はピザを食べた日に行ったことのあるところだった。
前来たときに比べて、落ち着いて風景を楽しむことができた。
街中の風景
建物の中でサーカスが行われることも
キリル文字でウクライーナと読む

特集:ウクライナとその周辺諸国との関係

ウクライナはロシア、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、ベラルーシの7か国に囲まれている。
アルトゥール曰く、ウクライナはこれらの国の多くと良好な関係を築いているが、特にポーランドとは、仲が良いらしい。
過去にポーランドに支配されていただけでなく、言語的にも似ている。
ポーランド語はキリル文字で書かれていないので、一見全く別の言語に見えるが、ウクライナ人がポーランド語をマスターするのは簡単らしい。

唯一嫌悪感を抱いている国はロシアである。
これはアルトゥール個人の価値観が入り込んでいるため一概に判断できないが、旧ソ連時代からウクライナ人が受けてきた恨みは根強いようだ。
事実、旧ソ連時代の政策により、多くの国民が虐殺されたためである。

ウクライナは地域によって親露、反露の傾向が表れている。
地理的な影響から、東側は親露、西側は反露、すなわち中央ヨーロッパ諸国寄りとなっている。
本当かどうか知らないが、ウクライナ東部の街、度に着くの人々はウクライナ語を使うのを嫌うらしい。
アルトゥールは彼らに対して快く思わないようだ。

独立して20年経った今でも、旧ソ連時代の弊害は経済、政治面で色濃く残っている。
徐々に改善されていくだろうと思うが、汚職や、ロシアのお顔色を伺いながらの政治など、まだ課題残っている。

食べる楽しみ

長い距離を歩いた後の食事は最高である。
見た目によらず大食いの僕としては、たくさん食べさせてもらえるのは大歓迎である。
今晩は茹でたジャガイモが4つくらい出され、バターを付けて食べた。
他にも、トマト、パプリカ、サーロ、黒パン、オリーブを食べ、コロナビールを飲んだ。
ウクライナ料理は基本的にシンプルで、初めて食べたときは、味付けに物足りなさを感じたが、今では素材の味が楽しめていいと思う。
茹でたマカロニを何も付けずに食べることにも慣れてしまった。

ウクライナでは来客を食べきれないくらいの種類と量のご馳走でもてなす習慣があるという。
これは隣国ジョージアでも同じなのだという。
今夜もルーダが椀子そばのように次々に追加していくトマトを片っ端から食べていった。

食後には必ずチャイがつく。
アルトゥールの家ではレモンティーと何かしらの茶菓子が出てきた。

そして満腹の状態で眠りにつく。
アルトゥールは学校のない日は昼まで眠るので、基本朝ごはんはない。

とても開放的な眺め

午後はDruzhby narolivにある公園に行った。
雲一つない快晴だった。
ドニプロ川が見渡せる。
公園に入るために20フリブナ(200円程度)必要だったが、自然を保護するため仕方なかった。
ウクライナで公園と言うと、USJに匹敵する規模のものばかりである。この公園には多きな木々が立ち並んでいることは言うまでもなく、ブドウ園や植物園までもある。
所々にベンチが置かれ、子供と遊ぶ母親、芝生の上に寝転がって日焼けを楽しんでいる人がいるとてものどかなところである。

途中歩いているとリスを見かけ、しばらく観察した。

自然に囲まれたとてもいいところだった。

気付いたことは、キエフにはクモや蚊など、人の害になりそうな虫がほとんどいないということ。
蚊のような小さな虫が飛んでいるのを見かけても、刺される心配はない。
だから上半身裸の無防備な格好で芝生に寝転がっていても平気なのだと納得した。

公園は広すぎて、全部回らないうちにくたくたになった。
ベンチで休んでいるとき、アルトゥールはイラに電話していた。
彼女の体調はだいぶよくなったらしい。
僕も少し会話をした。

街の中心部でアイスをおごってもらった。
チョコレモンソフトが100gで7.5フリブナ(75円程度)。
これでもウクライナでは高いほうらしい。
普通のアイスはスーパーで2フリブナ弱(20円未満)で買えるのだから。
アイスのコーンを置く台が計りになっており、グラムごとにきっちりお金を払うシステムだった。
なのでアイス2人分で20フリブナ。 
いつもどおりアルトゥールに感謝していただいた。

休日が終わってしまった

2011年9月19日(月)

キィーヴに滞在し始めて1週間が経った。
あらゆるものが珍しく、毎日どこかをぶらついていたら、時間はあっという間に過ぎていた。

今日はアルトゥールが大学へ行く日である。
僕は8時に目覚めると、アルトゥールはもう折りたたみベッドにはいなかった。
キッチンへ行くと、朝食をとっていたところだった。
しかし、もっと寝るように促され、再び部屋に戻ることになる。
大学のない日は昼近くまで寝ているアルトゥールにとっては、早起きだったようだ。

とりあえず寝て、9時過ぎくらいにまた起きた。
サーロやオリーブなど、昨晩こってりしたものを食べすぎたせいか、今朝はあまり食べられない。

部屋に戻ってくつろいでいると、アルトゥールが返ってきた。
僕宛にポストカードが届いているという。
送り主は前にスーパーの前で会った、アリーナだった。

イラが病気だったため、授業の資料をプリントして届けないといけなかった。資料を共通の友達に渡すために、大学へ一緒に向かう。

彼の通うキエフ・モヒラ・アカデミーは英語の教育プログラムがあるためか、ここの学生は英語が理解できる。
キャンパスでアルトゥールの友人と会っても、コミュニケーションをとることができた。

この大学に外国人は少ない。
外国人学生のための特別措置がなく、現地の学生と同じ試験を受けなければならないからだ。
しかし、街中ですらアジア顔に出くわすことがほとんどないにも関わらず、中国人はいるらしい。

大学の前のベンチに座って友達を待つ。
友達の名前もイラという。
病気のイラのために、資料を別のイラに渡すということで、少しややこしい。
イラという名前は女性によくある名前なのだ。

イラはかなり遅れてやってきた。
女性は準備に時間がかかるので、当然のことらしい。
イラはアルトゥールと軽く会話をし、資料を受け取るとすぐに去って行った。
彼女はアルトゥールよりもやや背が低め。といってもヒールの高さを合わせたら180はいっていたと思う。
アルトゥールに彼女の印象を聞かれたが、軽く挨拶を交わしただけだったので、少しそっけなかった感じがした。

サーロとオリーブ

サーロというのは、ウクライナの伝統的な保存食で、豚の脂身からできている。
写真の左側のタッパに詰め込まれている白い塊がサーロである。
アルトゥールから話は聞いていたが、豚バラ肉程度の脂身を想像していたので、始めは驚いた。

食べ方は黒パンに乗せて、そのまま食べる。
脂身がバターのように感じられた。サーロ自体は油の味しかしない。
ウクライナの冬はマイナス20℃になることもあり、冬場にサーロは格別美味しくなるそうだ。
脂身を口にする抵抗がなくなると、わりといけた。
気が付くと、サーロをどんどん口に運んでいたので、食べ過ぎには注意しなければならなかった。

食後にはキエフ・ケーキというものが出た。
これもハイパーマーケットで見た。
アルトゥール一家には本当によくしてもらって、感謝しきれない。
中身はサクサクした生地で、ケーキというより、スナック菓子のような食感だった。

スーパーで買っていたものは実は

帰り道、買い物をして帰ることになった。
ハイパーマーケットという巨大なディスカウントストアだった。
食料品だけでなく、食器、衣類、家具まで何でも揃っていた。
中はいかにも倉庫をそのまま店にしたという感じで、ラックには大量の商品が無造作に並べられていた。
値段がとにかく安かったが、安過ぎるものは粗悪品だと、アルトゥールが説明してくれた。

僕はいつも通り家族についていく。
大型のカートには大量の商品が放り込まれていた。

昨日と同じく、ルーダのアパートの駐車場で下してくれた。

部屋に戻ると、アルトゥールがお土産として多くのものをくれた。
写真奥:ほとんどチョコレート
手前左から:ウクライナの風景写真集、レシピ本、額
チーズ、マグネット、ろうそく立て、ジョージからもらったキノコ(木の実を削って作った)
テーブルクロス、ポストカード、ヴォトカ
チョコレートやウクライナに関する本、ポストカードやヴォトカがあった。
僕がウクライナに来てから、よく食べていてチーズまでくれた。
それほど僕はこのチーズを絶賛していたらしい。
日本ではない味で、KIRIチーズに似た食感で、プレーンだけでなく、ベーコンとマッシュルーム味があった。
さっきの買い物で見覚えのあったものも多く含まれていて、そこまで気を使ってもらう必要はなかったのだが、嬉しくもあった。

ジョージ暴走

National Exhibitionの敷地をぐるりと一周し、入口の広場に戻ってきた。
ここにはカートや自転車などが貸し出されていた。
僕らはジョージがカートを運転しているのを眺めていた。
始めは赤のカートに乗って、入口前の広場を回っていた。
僕はそのあいだ、他にも乗り物で遊んでいる子供たちを眺めたり、写真を撮ったりしていた。
ウクライナの子供はとてもかわいい。
ジョージも初めて見たときも、ワンパクな天使のようだった。
カートをとりかえ次は、緑色の、タイヤの大きないかつめのやつに乗っていたとき、ジョージは広場を歩いていた中年の女性と衝突した。
女性は怒った様子だったが、すぐに立ち去り、どうやら大した問題にはならなかったようだ。
結局ジョージのカートは終了となった。
付近の様子


気まぐれドライブ

今日もアルトゥールの家族とドライブに行くことになった。
キィーヴから車を南方に走らせる。
当初はウクライナの伝統的な農村風景が復元された場所に行く予定だったが、時間制限のために入れなかった。
とはいえ閉まる時間は午後6時で、もし夕方ごろにルーダの家に来て、ゆっくり軽食や雑談をしていなければ、十分に間に合っていただろう。
ウクライナ人は適当なんだと思った。

予定を変更し、National Exhibitionという場所に来た。
ここは旧ソ連時代に社会主義の成功を外部にアピールする場だった。
もちろん権力のもと、都合の悪い部分を全て隠していたのだが。
ヴィクトアは子供のころに、彼の母親とここに来たようだ。
当時はおいしそうなパン、ソーセージ、バターなどがもらえたそうだ。

現在は一般開放されており、周囲に立派な建物が無数にある、公園になっていた。

敷地内を散歩していると、リスを見つけた。
日本では見慣れないが、ここでは自然の多い公園では普通に見つかる。
壁の側面に家畜が描かれた建物があった。
ソ連時代には、国の豊かさを誇示するために家畜が入れられていたらしい。
当時子供だったヴィクトアは、建物の中に入ると、酷い悪臭がして、二度と行きたくないと思ったそうだ。

子供って疲れ知らずだと感じた瞬間

2011/9/18(日)

アルトゥールは明日の授業の予習をする必要があるので、僕はそのあいだソファーに座ってメトロの駅名でも覚えることにした。
日曜日だし、このまま家でのんびりするものと思っていた。

玄関の方で物音がしたと思ったら、ジョージが部屋の扉からひょっこり顔を出した。
今日もヴィクトア、オリャ、ジョージがやって来たのだった。
ジョージは僕と遊ぶ気満々だった。

アルトゥールは前にジョージがやってくると、さっぱり勉強できないと言っていたが理由がよくわかった。
昨日散々遊んであげたにもかかわらず、元気いっぱいだった。
僕は体力には自信がある方だが、さすがに2日連続でジョージの相手はちょっと疲れた。

ジョージは昨日と同様にオモチャの車を使って遊ぶ。
タイヤにゼンマイが付いていて、何度か車を後ろに引っ張って手を放すと前に進む。
ジョージはいくつもの車を僕に向けて発車させ、僕も車を手にとっては向こうへ応車した。
僕が手際よく次々と車を向こうにやると、ジョージは興奮しだし、手に負えなくなると、素手で車を全部吹き飛ばしてしまうのだった。
加減を知らないので、車が色んな方向に飛んでいくし、それがアルトゥールの勉強している机にぶつかり、騒がしくなった。
余りにも騒ぐので、ジョージは両親に叱られ、キッチンへ連れて行かれた。

ヴィクトアは、僕を気遣ってか、アルバムを開いて見せてくれた。
彼は仕事で非常に多くの国に行っていた。
ブダペスト、ボストン、スウェーデンなど20~30か国に行ったことがあるらしい。
アルトゥールの子供のころの写真もあった。
アルトゥール一家はアルトゥールがミドルスクールにいたころ、アメリカに住んでいた。
アルトゥールはそのころから写真でも目立つほどの巻き毛だった。

しばらくしてジョージが戻ってきた。
ジョージは僕の手を引っ張り、トイレに連れて行った。
連れションしに行くほど僕のことを気に入ってくれていたらしい。

今夜のディナーは

ドライブをしていると、これまで見たことのある風景がたくさんあって面白かった。
キエフ・シーからの帰りに少し寄り道した。
着いた先はドニプロ川の側で、ライトアップされたキエフの街と高速道路が見渡される。
下の写真の石像は、ウクライナを建国したとされる伝説上の人物たちである。
車外は10度を切っていて、日本から持ってきた秋物のパーカーだと、少し肌寒く感じた。

そのことをヴィクトアに話すと、全然寒くないと笑われた。
僕以外は半そででも余裕のようだった。
日本はまだまだ残暑が厳しいときだった。
側には大量の空き瓶が置いてあった。
どうやら結婚の祝賀パーティが行われていたらしい。
遠くで若者の集団が見えた。
帰りにスーパーに寄り、ルーダのアパートの駐車場で僕とアルトゥールは車を降りた。
ヴィクトアと握手をし、彼らの実家へ去って行った。

晩御飯のとき、アルトゥールはヴォトカを用意してくれた。
僕が帰りの車で飲んでみたいと言っていたからだ。
おちょこ位の大きさのグラスに軽く注ぎ、2人で飲んだ。
喉が焼けるような感じがした。

食事はさっきスーパーで買ってきた惣菜が並べれていた。
今日はウクライナ・スタイルでなく、フレンチ・スタイルだとアルトゥールは言った。
僕は美味しければ何でも構わないと答えた。